アンジェロ・ブッチ: 長年にわたってゴードン・バンシャフトの住宅からは、大きな影響を受けました。とは言っても、その住宅と私の関係はいつも机上のものでしたが。2006年に住宅の設計依頼でイーストハンプトンに招かれたとき初めて、バンシャフトの住宅があるその場所へと近づく事ができたのです。当時のことですが、敷地を見るためイーストハンプトンに到着すると、地元の建物で見たい建物はありますか?と聞かれたのです。それで、ええ、バンシャフトの住宅をぜひ、と答えました。しかし、その住宅が、ほんの少し前に取り壊されたことがわかって驚きましたよ。ショックでした。何十年も、心に留めていたあの住宅。あのイサム・ノグチの庭。やっとその場所に近づけたのに、それはもう存在しなかったのです。
長年、この住宅があなたを魅了してきたものとは、何だったのでしょうか?
建築家が、伝統という重圧を捨て去り、新しい提案の領域を開いていく、その方法でしょうか。バンシャフトの住宅は、二枚のトラバーチンの平行配置された壁と、その上に架けられた「ダブルT」のプレキャストスラブの屋根だけでできています。プランは驚くほどシンプルです。プランの両端に位置する二つのベットルームは、四分割された庭のそれぞれ反対方向に開いていて、中央のリビングルームは湖に向かって開いています。
全てが、外部と関係を持っているのです。ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸と比較することもできるでしょう。しかし、このトラバーチン・ハウスの方が、どういうわけか、ブラジル人あるいは、サンパウロの人にとって親しみやすいものなのです。
ー対の構造壁に架けられた一枚のスラブ。非常にラディカルで要素還元的なところなどは、多くの事例に同様の作り方を探し出すことでできるでしょう。ブラジルの典型的なファベーラは、このようなかたちで建てられていますし、あらゆるインフォーマルな集落には、コンクリートブロックやコンクリートスラブを製造する工場があるのです。社会階層に関わらず多くのブラジル人が、バンシャフトの住宅における基本要素を認識できると思いますし、それらは私たちの現在の建設文化に深く根ざしているものなのです。私たちは、プレキャストコンクリートの住宅がもつシンプルさと親密な関係にあるのです。 物質的な観点から言えば、非常に控えめな構造物だと言えますが、同時に、その寛容な空間は、ラグジュアリーなものでもあるのです。正直に話すと、私の心の中に居続けていたこの住宅の姿にトラバーチンはなく、ただの二枚のコンクリートブロックの壁だったのです。トラバーチンは、この住宅の名前の由来ともなっていますが、私にとってはそれがトラバーチンであろうとも、なかろうとも、その価値は同じなのです。いや、むしろない方がいいとも感じます。なぜなら、ブラジル人にとっては、このトラバーチンという素材がハイスタンダードを意味しますから。私は、どんな洗練された素材よりも本質的なものが好きですね。
トラバーチン・ハウスでは、アート作品の存在が重要な役割を果たしています。そのおかげで、内部は家庭的な空間になっていますが、アート作品がなければ、かなり簡素な環境となってしまうのではないでしょうか。
その通りだと思います。バンシャフトにとっては、文化的な生産物が、家でのくつろぎを与えていて、それは非常に美しい考えだと思うのです。この住宅は、文化的生活を形成するアイデアを示してくれていますね。そして住宅は、その建築的要素それ自身よりも、アート作品や人々の会話へと注意を向けさせるものなのです。バンシャフトは彼自身、常にアーティストとの仕事もしていたし、そのことが住宅の中にも反映されていたのだと思います。つまり、イサム・ノグチやヘンリー・ムーアは彼の日常生活の一部だったのです。ヘンリー・ムーアの作品がそこにあったのは、彼らが、建築家、そしてアーティストとして、文化の生産に従事しつつも、同僚、そして友達として、作品を交換し合う関係にあったからだと思います。
住宅の内部の話をしましょう。バンシャフトが住宅の共同体性を強く強調した動機とはなんだったのでしょうか?
まず最初に、この住宅が週末住宅で、カジュアルな生活が想定されていたことを指摘したいと思います。つまり、永住するための慣例や、生活のリズムといったことに従わなくてはならない住宅ではないということです。同時に、一つの住宅の中に、二つの住宅があるようなのです。その二つの空間はお互いの物理的な距離のおかげで、とても親密な関係にあると思うのです。
平面図では、大きなバスルームのある部屋と、キッチンに近い別の部屋があるのがわかると思います。後者はゲストルームにもなるのでしょう。バンシャフトの住宅は、中にいるあなたをさらけ出すようなものではありません。現代的で自由な感覚を残しつつも、親密さの多様な領域をうまく取り込んだデザインなのです。
眺望はフレームにおさめられてますし、建物全体の形は完璧な長方形をしています。そして、その長方形は、地形から少し持ち上げられていますね。バンシャフトはどうして、ランドスケープと建築の関係をこれほどまでに明確に区別したのでしょうか?
エントランスからこの住宅をみると、ジョン・ヘイダックのウォール・ハウスのように、壁が連続しているでしょう。あるいは、サーリネンのMITチャペルのオリジナル案と関係づけることもできるかもしれないですね。MITの建物に面した壁を通り抜けると、(平面上で、教会を頭とすれば)首にあたる部分が、シリンダー状の教会のエントランスにつながっていますね。ミース・ファン・デル・ローエの田園住宅計画では、壁が住宅を遥かに超えて行ってしまいますが、ここでも共通点が見出せます。シンプルな要素による強い存在感によって、住宅の内部と外部はうまく接続されているのです。
バンシャフトは、空間を分離するために壁を使うのではなく、それぞれの外部空間を規定するために壁を使っているのです。まるで三つの異なる領域に部屋を開いていくようにね。そのようにして、この住宅は、庭の中における外部から守られた部屋のようになるのです。最初は、住宅の幾何学が、周囲の環境に反しているかのように見えるのですが、実際には逆で、住宅の幾何学がクリーンでシンプルであるからこそ、内部と外部をシームレスに溶け込ませることができるのです。さらに、庭もよくデザインされていて、外部空間は、周りの自然よりも住宅としっかり関係を持ち、そのおかげで、外に住んでいるかのような感覚が得られるのです。
かつてバンシャフトは、「建物がそれ自身を物語るのであって、そこに弁明や説明の必要はない」と発言していましたが、彼の住宅の場合、鑑賞するにあたって何か最初に理解しておくべきことはあると思いますか?
建築作品を鑑賞するにあたっての前提条件というものはないですが、特に見てほしい特性に関しては、説明の機会を自らあえて拒否することで得られる小さな教訓があります。策略ですね。説明を省くことで、はっきりしていないことに意識が向くようになるのです。私はバンシャフトの発言に全面的に同意します。建築の提案を誰かにプレゼンするときに、たくさん説明しないといけない、と感じてしまったら、大抵はもう失敗ですね。バンシャフトは実践的な人なので、何度かそのようなことを経験した上で、気づいたのではないでしょうか。誰でも建築作品を評価してもいいし、しなくてもいい。より重要なことは、多くの評価が、その人自身の文化的背景に基づいているということです。誰かに解釈や説明を押し付けることはできません。いずれにせよ建築には、可能性がありつつも、まだ為されていないことの境界線を探っていき、私たちの現在進行系な「空間文化」を押し広げ、挑戦していく役割があるのだと思います。。
この住宅から学んだことで、あなたの建築に強く影響を与えていることは何ですか?
必要不可欠でないものを、全て図面から振り落とすかのようにして、設計のプロセスでは、何度か図面を「きれい」にしてしまうこと、でしょうか。住宅の設計では、特にそうですね。何案も考えている間に「ノイズ」や「残りカス」のようなものがそのまま堆積してしまい、その結果、メインとなるアイデアがぼやけてしまうことがあります。
バンシャフトの住宅は、非常に成熟しているのですが、それは、この住宅が安易な、あるいは、要素還元的で平凡なアイデアからスタートしたものではないからでしょう。同時に、余計なジェスチャーなどがなく、とてもクリアーで本質的なものに見えるのです。住宅とは - 配置、雰囲気、家具、美術品、使い方、などに関して - そこに住む人との相互作用の成果物であるべきだと思います。私の考えですが、守られている感じや、安心感というのは、マテリアルからというよりは、スケールや光の操作からもたらされているのだと思うのです。そしてそれらを実現するには、つまりは、いつ設計をやめるのか、建築家は、そのタイミングを見極める必要があるのだと思います。
2020年7月10日